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いまさらミヒャエル・ハネケ初体験。
確かにあのシーンはびっくり。そのほかも長廻しワンカットシーンと突然の場面転換と見るほうをグイグイ画面に惹きつける。この計算されたリズムが心地よい、というかなんとも不快感を煽る。曖昧な結末のようで画面の隅々に情報の断片を散らせてきっちりと解決するようで何処かに違和感が残るような感触はジーン・ウルフやクリストファー・プリーストの小説のようである。
監督は饒舌な人らしくインタビューで全部解説してくれている。監督は「罪」といい作中では「疚しさ」と表現されるものがテーマとしておかれている。それは概ね主人公の幼少の体験に根ざした差別意識として表出する。豊かで恵まれていてごめんね、でもそれは俺が悪いのか、俺のせいじゃねーよ、そんな目で俺をみるんじゃねーよ、ということである。
正直な良識人(つまり我々で貴方達で彼ら)が本音で語り合ってお互いを理解しあっているふりをしながら、決して他人には言わない奥の奥の本心をしっかり教えてくれる、技巧的で映像的快感に溢れたワイドショーである。
つまり嫌な監督でこういう不快な映画は好き
別に『硫黄島からの手紙』を期待しているわけではないが、もうすこし何とかならないものか。何故アメリカ人が日本映画としての戦争を描けるのに日本人には描くことが出来ないのか。
とにかくあの能天気ともいえるダイアローグである。彼ら登場人物は喋ってるのではなく脚本家(山田洋二も書いてるのね)の主張を読んでいるのである。まずは彼らを当時の人間として扱ってやるべきであろう。
潜水艦モノとしてはCGなんかに出来のばらつきはあるが概ね面白かった。特に訓練シーン。
テレビじゃないと見なかったな。海老蔵は思った以上に貫禄が在り過ぎて、おっさんそのもなのもいただけない。
目的が明確で、それを実現する為に天文学的な手間と資金をかけて適切な手段で完成させられた最良の結果ということであろう。こちらとしては目的がどこにあったのかということに疑義を挿みたくなるわけだが、マイケル・ベイとういう監督の本質を彼のフィルもグラフィーから察するに、その疑義自体がそもそも場違いな批判であることは明白である。つまり自分も年をとるということであり、いつの間にか遠くまできてしまったのだ。
ただ、マイケル・ベイの手数はやはり少なすぎて単調で物量任せの演出は飽きてくるし、そもそも彼には見たいという欲求が強すぎて見せたいという感覚が大きくかけてるように思う。
CGの発達はあまりに万能すぎて出来ないことはない。そこには膨大な手間がかかるが実現への工夫が必要ないのだろう。その際限ない手間が細部へと沈泥しているのではないのか。見るほうは驚きがなく、手間への関心のほうが大きいのだ。
映像面での細部の豊かさ、とりわけ米軍の恐ろしいまでの宣伝のような兵器のデモンストレーションは確かに面白かったけど(AC-130の側面射撃とかV-22とか)全体に退屈で驚くことに寝そうになった。一見ブロックバスターの超娯楽大作のように見せながら、限りなく間口のせまいニッチな映画というのがこれの正体だったのだ。
なんとまあ・・・
ヤン・デ・ボンは何故監督になっちゃったのだろう。
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それでもボクはやってない スタンダード・エディション 販売元:東宝 |
脚本もいいし演出もいい。出てくる役者も抜群にいい。すこぶる面白いのである。
でも、これって何の面白さだろう?映画としてどうなの?結局は痴漢事件を争う刑事裁判とうい題材の面白さじゃないのかという所に行き着く。もちろん題材だけではなく冒頭の要因あってこそなのだけれど、それでもなお題材によっかかりすぎなのじゃないかと思われる。これは周防監督自身が述べているとおり刑事事件の制度の歪みがネタとして面白く、その理不尽さを映画を通して世間に伝えたいという動機がそうさせているのだろう。
つまりこの映画は周防監督のコメディ的感覚のおかしみが全編に散りばめられてはいるが、正体は徹底的に正統な社会派であったということなのだ。だから、わたしが強く興味を持っていたラストの着地点がどうなるかというと、本来、裁判の過程によって明らかにされるべき事件の真相が(裁判では真実など明らかにされることはないのだと、この映画が見るものに伝えてきていたのだが)突然、主人公の一人称の真実として語られ、この歪んだ裁判制度が冤罪を生み出したのだという結論に至るのである。
監督は傍聴席から見える刑事裁判を描いた。ならば傍聴席から見える真実(もしくは真実が見えないこと)を描ききるべきではなかったのだろうか?映画としてここで若干の違和感を覚えた。リベラルな社会派としては正解なのだろうけど。
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輝くもの天より墜ち (ハヤカワ文庫 SF テ 3-6) 著者:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア |
蛮行の真実が明らかにされた後の彼女の運命、虐殺が繰り返された後の被害者たちの変容。そこに残される者。
悲劇に対する同情や憐憫がそこにはない。それは諦観なのか、達観なのか。
p562「わたしの全人生はわたしのもの・・・・・・」
作品発表の2年後に彼女は死んだ。アルツハイマーの夫を事前の約束に従いショットガンで射殺し他後、自らの頭を打ち抜いて。
こういうことで変なバイアスをかけて読むものではないが、ちょっとこの長編は彼女自身がかなり前景に出て来たようにしか読めなかった。
気持ち悪い。
モウレツに気持ち悪いのである。
正体は前振りのやたらと長い山崎まさよしの曲のPVだったのだが、あまりの気持ち悪さに心底辟易した。
もちろん新海誠の作品は見てきたわけである程度の予測は出来たし、今までの作品通りと言うことも出来るだろう。つまり激しくカットの変わる執拗なくらい精緻で特殊な光源処理を施した背景と素人くさい、はっきり言えば下手な人物のアニメ、ぼそぼそ喋るナレーターと綺麗な旋律の音楽。ここにはいわゆるアニメーションという宮崎アニメ等の魅力のひとつである動きの喜びはない。キャラのアップ等が画面上もたないのは製作者もある程度わかっているのであろうか極力避けられてはいるがそれでは芸がないのですこし背伸びして努力したりする。特に第二話のサーフィンシーンなどは水の表現なども含め苦手な部分が顕著になった例だろう。
そこで語られる、語られない、物語の空虚さ、というか空洞さはなんなのだろう。今作は前作までの言い訳(水増し)なSFガジェットを廃することによってイメージ先行の予告編をそのまま伸ばした退屈な物語を避けて、より直球な連作短編で主人公の心の遍歴を描く。しかし余計なものを取り除いて立あらわれた物語のなんとも空虚なおぞましさはなんだろう。多分作者は本気なのである。大真面目なのである。たとえばコーエン兄弟やP.T.アンダーソンの映画のようなアイロニーやサタイアは存在しない。実作者ならば通常持っているであろう、ある種の視点が完全に抜け落ちている。そこに疑義は存在しない。
モラトリアムの肥大化した妄想を物語に転化するのは全く問題ないと思うがそこには通過すべきフィルターはあるべきだろう。そしてもうひとつ気持ちの悪いところは多くの人間が「萌え」なる概念を語るときに避けてしまうエロゲーや同人誌から発生するセクシャルな欲望、要は描かれないセックスの抑圧され方だ。
ここには何もない。何もない世界で目を閉じ耳を塞いで口をつぐんで生きている。これが今のリアルだろうか。
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